広大な平地にぽつんと遺跡が存在する街



『戦場に架ける橋』

枕木1本死者1名とも言われ、過酷な建設環境で有名な泰麺鉄道のクウェー川に架かる有名な鉄橋観光地です

カンチャナブリを代表するこの観光地のある周辺は、現在のカンチャナブリの市街地となっています

ですが1300年代におけるアユタヤ王朝時代は、ここより約20kmほど北上した場所が人々が集まるコミュティーでした

しかもここは当時ビルマ軍がアユタヤ・スパンブリを攻略するための進軍ルートでもあります

人々が集まる市街地はビルマ軍の帝国主義と戦う箇所でもあったようです

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アユタヤ王朝が崩壊するとともに、この地域も徐々に人が減り現王朝発足時には完全に放棄された都市となりました

今日この界隈には当時の面影が遺跡として寂しく点在し残ります

そんなぽつんと遺跡は僕の大好物

自称『さすらいの遺跡お遍ラー』としてお遍路しない理由が見いだせません


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そんなわけでバンコクより2時間

今日も元気に出発するとしましょう
レッツ――ヽ(@,,>∀<)ノ――ゴォォ♪ 


 NORTHEAST FORT


戦時下において四方を一望できるように東西南北に戦略的に配置されていた要塞跡です

ここは北東部にあたる砦となり、カンチャナブリー旧市街遺跡に最も近い遺跡になります

四方の中で一番目立つこの砦は、他の三方に比べ分かりやすく容易に発見出来ます

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容易に発見できますと言うより、他の3ヵ所が発見困難と言えます

正直さんざん探しましたが結局発見出来ませんでした・・
( ;∀;)


やっぱりちゃんと調べてから来ないとダメですね

あと3ヵ所ご存じの方は是非教えてください~

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この要塞は外側の角が北東に向いている積み重ねられた石で出来ています

内側(西側)には、砦の頂上に向かう階段がありますがありますが、不思議なことに階段の一番上には砦から成長している大きな木があります

現在、修復の一環として上部にはタイルが貼られ、登る人々からのダメージを緩和しています

昔はここより進軍するビルマ軍を注視していたのでしょう

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 WAT KHUN PHAEN / วัดขุนแผน


ワット・クン・ペーン

この寺院名を見てピンってきた方は相当なタイ通
( ・`ー・´) + キリッ


1989年にすべての遺跡が発掘された後、美術部門により修復が行われた廃墟寺院です
そうここはタイで有名な小説『クンチャーン・クンペーン』に登場する地域なので遺跡もそれにならい、小説に関連する名前がつけられました

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プラーン(仏塔)は高さ約15mの単一のプラーンで、おそらくカンチャナブリで一番古いものと推測されています
装飾はほとんど残っておらず正方形の土台に12角とうもろこし型プラーンがそびえます
アユタヤ王朝時代の塔ではありますが建立の詳細は不明です。


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教会跡は東側にドアがあり、幅17.2 m、長さ7.8 m、高さ2.5mのサイズでレンガとモルタル製になっています
内部はアユタヤ王朝後期によく見られたスタイルなので建立もその頃と推測されます


尚、小説中ではクンチャーンがこの寺院を建てプラスリン・ルアチャイに昇進したとされているようです


いわばここは出世城?
浜松城みたいで親近感がありますよ
(・∀・)つ


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 WAT MAE MAI NHUM / วัดแม่หม้ายเหนือ


ワットメイマイ(北)
クロゴケグモという変わった名前がついている寺院跡

ワット・クンペーンと違いプラーンは土台が残るのみで、建物らしいものはほとんど残っておりません アユタヤ王朝時代に建立されたと推測できますが、詳細は文献が無く不明となっています

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Wat Khun Phaenの東約300メートルに位置し、真ん中には直訳すると骨洗いプールと呼ばれる大きな池があります 長方形の教会の土台と頂上が崩壊している丸塔が残ります
発掘調査の結果、粘土製の屋根瓦と木造の構造物、およびそれらに使用されたと思われる金属釘が発見されました

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これにより、レンガの精舎は屋根瓦で裏打ちされた木製の屋根構造を持っていたと結論付けされましたが、木製の部品は腐敗により残念ながらほとんど残っていません 木造部分が残っていればまた風景が変わったかもと思うと少々残念です
(´・ω・`)


しかし風化する木が
何百年も
残るってよく考えたらすごい事ですね

何気に日本の寺院のすごさを再認識しちゃいましたよ

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 WAT MAE MAI TAI / วัดแม่หม้ายใต้


ワットメイマイ(南) 先ほどの遺跡の南側に位置する遺跡

同じ名前なので場所は少々離れていますが、おそらく同じ寺院であったと推測されたようですね
ここもアユタヤ王朝時代に建立されたと推測できますが、詳細は文献が無く不明となっています


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ただ区別しているという事は残存建物から、北側とは何かしらの違いがあるのかもしれませんね

残存建物もこちらには残ります 双子塔というそっくりの幅5mの正方形土台のチェディー跡が二つ、2mほど離れて建っています

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その前には東側に出入り口を有する幅8m、長さ10mの建物のベースがあります
発掘調査時砂岩の仏像が発見されたようですがここにはおいてありません

今でこそ寂しい雰囲気ですが、繁栄期にはきっと多くの人々が行きかう寺院だったことでしょう

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 まとめ


アユタヤにあるこの手の放棄寺院には大抵新しい仏像が据えられているものですが、悲しいかなここの3つの遺跡にはいずれも設置されておりません

広大な敷地にも関わらず人っ子一人おらず、昼間でも不気味な雰囲気と言っていいかもしれません

市街地より離れた場所という事もあるでしょうが、その昔は市街地であったと考えると栄光はいつまでも続かないのねと考えちゃいますね
( ;∀;)


今のバンコクも100年後には誰もいなくなっちゃうのかしら?


それを知ることはないでしょうけどね
(。-∀-) ニヒ









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