1万5千kmを走破した日本一歩いた軍隊はここで終戦を迎える
1939年日中戦争が泥沼化する中で生まれたこの師団は、もともと占領地の治安維持のために結成された
そんな中1944年に大陸打通作戦という、作戦距離2400kmにおよぶぶっとんだ戦略が始まってしまう
これは中国から当時日本占領下であったインドシナまでの陸路を開く事が目的であり、この師団もその作戦に参加する事になったのだ
ここはナコンナヨックのワット・プラーンマニーという寺院
この寺院に中にひっそりとこの慰霊碑は存在する
先の写真のようにど日本語で祀られたこの慰霊碑に、一体どれだけのタイ人が理解をしているか疑問ところだ
(´・ω・`)
慰霊碑のある部分は寺院の中でも市場になっている部分の近く
チムチュム鍋が100THBで売られているようなローカル感溢れる市場だ
この市場は今でこそほのぼのと歩くことが出来るが、当時の37師団はそうも行かなかった
当時の中国内陸部は「昼は酷暑、夜は猛寒波」という状況で、且つその中を銃火器類の重い装備を背負って強行していくことになる
(((( ;゚д゚)))
慰霊碑のあるお堂の前には、何やら青空雑貨店がオープンしちゃっていて、それが入り口に入る事すら困難なほど隣接されっちゃいている
( ̄0 ̄;)
なかなかぞんざいな扱い
やはり日本語を理解出来ないタイの方には、この慰霊碑などなんのこっちゃわからないのであろう
その後この師団は次の作戦として、タイで当時の敵イギリス軍を迎え撃つ事になった
そこで中国からさらにタイまで行軍する事になる
途中ベトナムにて明号作戦というフランス軍を撃破する作戦に参加
ベトナムやラオスといった、当時フランス領下であった国々の独立に貢献したと言う
中国からタイまで1万5千Kmもの距離をなんと歩いて移動した37師団
日本の歴史上もっとも歩いた軍隊として知られる師団である
さらにその間も別の作戦をもこなしているなかなか勇敢だったようだ
そう思えば天井の国旗も神々しいものに見えてくることだろう
(・∀・)
バンコクでの戦況が激しくなったことから、日本軍は山間部で要塞化しやすいこのナコンナヨックを決戦地としたようだ
その当時この周辺各地にいた他の師団もこの地に集結したいう
まあこの地の方々にとっては招かざる客だったかもしれないけど・・
それにしてももう少し奇麗にしてほしいな
(≡ω≡.)
結果としては先に終戦が来てしまい師団はここで解散となる
一時兵員は抑留されるが1946年日本へ復員することになったのだ
この石碑はその後戦死した仲間や軍馬を弔うため、戦友会により1989年に建立された
後ろの碑誌にはその功績の詳細が記されている
日本旧陸軍 第三十七師團碑誌
第三十七師団(冬)は 一九三九年(昭和十四年)三月二十五日九州で編成
中国山西省普南へ出征して警備に任じ次いで一九四四年春
中国縦断の大陸打通作戦に参加して南進した
すなわち中国運城から南へ征旅一万四百余粁千山万岳を踏破し
仏印を経てタイに入り一九四五年夏英印軍との最後の決戦に備えてこのナコンナヨックに進出した
図らずも同年八月十五日終戦
点を仰いで長恨極まりなく武器を捨ててこの地に駐留し力尽きて倒れし多くの兵馬をこの地に埋めて
一九四六年故山に復員した
先の大戦において昔しくも戦没せし殉国の師団将兵七九二〇柱と師団軍馬四三七六頭の精霊を祭りわずか七歳で消滅した歴戦の師団と軍旗三旗を偲び併せて大戦間失われし彼我幾多の犠牲を悼むと共に永遠なる平和への思いをこめてこの碑を建てる
このナコンナヨックは師団終焉の記念すべき地であり師団がここに駐留間タイ王国官民から賜わりし温かい友情とこの碑建
設に尽力下されしナコンナヨック郡役所及びプランマニー寺のご厚意に対し深く感謝の意を表する
そしてこの碑が末永く日本とタイ王国との親善の礎石となることを祈る
一九八九年三月二十五日(第三十七師団創立五十周年記念日)
第三十七師團慰霊碑建設奉賛会
その他&すべての写真はこちらより
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190812
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1939年日中戦争が泥沼化する中で生まれたこの師団は、もともと占領地の治安維持のために結成された
そんな中1944年に大陸打通作戦という、作戦距離2400kmにおよぶぶっとんだ戦略が始まってしまう
これは中国から当時日本占領下であったインドシナまでの陸路を開く事が目的であり、この師団もその作戦に参加する事になったのだ
ここはナコンナヨックのワット・プラーンマニーという寺院
この寺院に中にひっそりとこの慰霊碑は存在する
先の写真のようにど日本語で祀られたこの慰霊碑に、一体どれだけのタイ人が理解をしているか疑問ところだ
(´・ω・`)
慰霊碑のある部分は寺院の中でも市場になっている部分の近く
チムチュム鍋が100THBで売られているようなローカル感溢れる市場だ
この市場は今でこそほのぼのと歩くことが出来るが、当時の37師団はそうも行かなかった
当時の中国内陸部は「昼は酷暑、夜は猛寒波」という状況で、且つその中を銃火器類の重い装備を背負って強行していくことになる
(((( ;゚д゚)))
慰霊碑のあるお堂の前には、何やら青空雑貨店がオープンしちゃっていて、それが入り口に入る事すら困難なほど隣接されっちゃいている
( ̄0 ̄;)
なかなかぞんざいな扱い
やはり日本語を理解出来ないタイの方には、この慰霊碑などなんのこっちゃわからないのであろう
その後この師団は次の作戦として、タイで当時の敵イギリス軍を迎え撃つ事になった
そこで中国からさらにタイまで行軍する事になる
途中ベトナムにて明号作戦というフランス軍を撃破する作戦に参加
ベトナムやラオスといった、当時フランス領下であった国々の独立に貢献したと言う
中国からタイまで1万5千Kmもの距離をなんと歩いて移動した37師団
日本の歴史上もっとも歩いた軍隊として知られる師団である
さらにその間も別の作戦をもこなしているなかなか勇敢だったようだ
そう思えば天井の国旗も神々しいものに見えてくることだろう
(・∀・)
バンコクでの戦況が激しくなったことから、日本軍は山間部で要塞化しやすいこのナコンナヨックを決戦地としたようだ
その当時この周辺各地にいた他の師団もこの地に集結したいう
まあこの地の方々にとっては招かざる客だったかもしれないけど・・
それにしてももう少し奇麗にしてほしいな
(≡ω≡.)
結果としては先に終戦が来てしまい師団はここで解散となる
一時兵員は抑留されるが1946年日本へ復員することになったのだ
この石碑はその後戦死した仲間や軍馬を弔うため、戦友会により1989年に建立された
後ろの碑誌にはその功績の詳細が記されている
日本旧陸軍 第三十七師團碑誌
第三十七師団(冬)は 一九三九年(昭和十四年)三月二十五日九州で編成
中国山西省普南へ出征して警備に任じ次いで一九四四年春
中国縦断の大陸打通作戦に参加して南進した
すなわち中国運城から南へ征旅一万四百余粁千山万岳を踏破し
仏印を経てタイに入り一九四五年夏英印軍との最後の決戦に備えてこのナコンナヨックに進出した
図らずも同年八月十五日終戦
点を仰いで長恨極まりなく武器を捨ててこの地に駐留し力尽きて倒れし多くの兵馬をこの地に埋めて
一九四六年故山に復員した
先の大戦において昔しくも戦没せし殉国の師団将兵七九二〇柱と師団軍馬四三七六頭の精霊を祭りわずか七歳で消滅した歴戦の師団と軍旗三旗を偲び併せて大戦間失われし彼我幾多の犠牲を悼むと共に永遠なる平和への思いをこめてこの碑を建てる
このナコンナヨックは師団終焉の記念すべき地であり師団がここに駐留間タイ王国官民から賜わりし温かい友情とこの碑建
設に尽力下されしナコンナヨック郡役所及びプランマニー寺のご厚意に対し深く感謝の意を表する
そしてこの碑が末永く日本とタイ王国との親善の礎石となることを祈る
一九八九年三月二十五日(第三十七師団創立五十周年記念日)
第三十七師團慰霊碑建設奉賛会
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