間に合わない火葬!死体は溢れて山となる



ラッタナーコーシン王朝(今の王朝)が始まった頃、ラーマ1世は市街を守るために城壁と門、砦の建造を命じた

市街とは現在、グランドパレス(ワット・プラケオ)がある周辺の事を指す

それぞれの門には各災害から都市を護るべく魔除けの護符が貼られたが、その中で西門だけは例外であった

理由は西門が持つ役割に起因する

そう、この西門は市街より遺体を城外へ搬送する専用門
まさに死者の門であったからだと言う


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その砦は今日マハ―カン砦や、プラスメン要塞等の遺跡に繋がっている

王宮周辺の白壁は、ほぼこのような砦の遺跡なのだ

この風景をみたら護られている雰囲気を是非感じていただきたい
( ・`ー・´) + キリッ

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当時、この市街は王族至上主義で庶民にはいくつかの制限が設けられ、その中に王族以外の人は城壁内で火葬してはならないというものがあった

その為、王族以外の遺体はすべて城壁の外のお寺『ワット・サケート(黄金の丘)』まで運ばれ、そこで火葬されていた

市街の一番端に位置するソイ・サムランラット

この通りがワット・スタットへ向かう通りになっていた事から、ここにあった西門が遺体搬送専用門になったのだと言う

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この西門は死者が城外へ出ていく門として、いつしか都民に幽霊の門:プラトゥーピーという不吉な名前で呼ばれるようになっていった

現在のサムランラット交差点
ここが以前、西門があった位置となる

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この周辺は今ではよくあるタイの風景が広がっている

過去の出来事はこの風景からは微塵も感じ取れない

タイ人の間でも何故ここが幽霊の門なのかご存じない方も多いのかもしれない・・

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それもそのはず
今ではその名は有名パッタイ屋ぐらいしか継承していない

行列が出来る程の有名店は本当は『ティップ・サマイ』という店名だが、皆パッタイ・プラトゥーピーと呼んでいる

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ラーマ1世からラーマ5世までの時代、度重なるコレラの大流行でバンコクは荒廃した

特に19世紀の半ばに猛威を振るったコレラは、当時のバンコクの人口の1/10 に匹敵する人数を死に追いやったという

毎日、何百体もの遺体が西門からワット・サケット寺院へ運び出された

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運び込まれる遺体の数は空前絶後の多さとなり、火葬場の処理能力をはるかに超えていた

火葬を待つ遺体は腐敗の山を作り出し、ハゲワシが群がって腐肉をついばんだという

その光景はまさに地獄絵図

そんなことからもこの幽霊門は地獄へ通じる門として、バンコク都民の印象に強く残るのであった

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その地獄絵図は現在ワット・サケットの一部の場所で見る事が出来る

遺体に群がりついばむハゲワシの風景が人形で表現され、明らかに異質な空間が出来上がっているのだ

この歴史を知らずしてワット・サケットへ訪れると、なぜここにこんなものがあるのか不思議に感じる事だろう

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黄金の丘として人気のあるこの寺院も、その昔は幽霊門から通じる地獄であった

次回の訪問時には是非思い出してください









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