その昔ここよりビルマの侵攻を許すことに



国道309号などからアユタヤ島へ渡る際に使用するナーレスアン橋を筆頭にした3本橋

大河チャオプラヤ川を渡るだけあって、どれもなかなか立派で大きな橋となっている

今でこそそのような橋を使い簡単に入れるアユタヤ島であるが、王朝があった際にそんな簡単に入れてしまうようではどんな輩が侵入してくるか分かったものでない

したがって侵入を妨げる擁壁を構築するのは当時でも当然必須の国防であった

という事で簡単に入れる3本橋の下には、簡単に入れない城壁の遺跡

今は無き『たて×ほこ』のにらみ合いが、時代を超え静かにこの地で続いているという

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さて冒頭から『何言ってるんだ?こいつ』という感じを出しつつ今回は城壁の遺跡

この城壁の元となる最初の壁はアユタヤ王朝初代王ウートン王によって建てられた

当初はアユタヤ島東側のみでここに遺るレンガ造でなく、木の丸太を積み上げる形で作られていたという


この写真はタムロン橋の下に遺るレンガ壁

一見するとこれが何なのかよく分かりませんね
(´・ω・`)

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ここを紹介する看板は正面でなくものすごい分かりづらい一番端の奥

まるで誰にも見られたくない位置に内気に存在している


僕も当初発見出来ませんでしたね

もう少し大きくそして表舞台に出してあげればいいのに・・
(`・ω・´)

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初期は丸太でもよかったのだろうが、度重なるビルマ軍のちょっかいに流石に丸太では心もとなくなってくる

そこで時のMaha Chakrapadi王(1548-1568)は丸太をやめレンガを用い壁を強化する事に

そのサイズは幅5m、高さ6m

そして東側だけだった壁を島全体を囲うよう延長も施した

その総距離は12kmにもおよびその間に16の砦、18の大型ゲート、61の小型ゲートそして20の農業用灌漑水路が通されたという

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だが肝心の東側の城壁の幅と堀が他所より狭かったこともあり、1569年この位置よりアユタヤ王朝はビルマ軍の侵攻を許すことになってしまった

そのためMaha Dhamaraja王(1569-1590) 治世時代に古い城壁は見直され大幅に拡張されたという

それが今に残る城壁になっているのだとか


尚、アユタヤ島北側を通るウートン通りにもちょっぴり拡張された城壁の残骸が残る

目立つ場所で2か所ほどあるので興味のある方は探してみよう!
(・∀・)つ


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流石にいまは攻めて来る敵もいないので『ほこ×たて』は3本橋の勝利


関係ないけどあの番組結構面白かったのになー

やらせなんて演出の一部なんだからいいと思うんだけど、許せない方も多いのね・・
(TДT)











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